山口組系多三郎一家「後藤一男」組長暗殺事件で神戸山口組山健組の傘下組織幹部を逮捕

名古屋市を拠点としていた指定暴力団山口組系多三郎一家(当時)の後藤一男組長=当時(65歳)=が2007年に神戸市内の路上で刺殺された事件について、兵庫県警暴力団対策課と葺合署は26日、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)の疑いで指名手配されていた指定暴力団神戸山口組山健組の傘下組織幹部で、住所不詳の勢昇容疑者(76歳)を逮捕したことを発表しました。

県警は実行役の供述などから勢容疑者が現場で指揮を執っていた可能性が高いとみております。

兵庫県警によりますと、勢容疑者は26日に神戸市東灘区内の路上で逮捕されました。また、勢容疑者の逃亡を助けたとして、犯人隠避の疑いで京都府木津川市加茂町里中森に住む無職の中田智富容疑者(63歳)も逮捕されました。

勢容疑者の逮捕容疑は、2007年5月31日午後6時15分ごろに神戸市中央区二宮町1の路上で、あらかじめ組織内で定められた役割分担に基づき、後藤組長の腹部を刃物で刺して殺害したものとされています。県警は、容疑者の認否については明らかにしておりません。

この事件に関しては、県警が葺合署内に捜査本部を設置し、殺人などの容疑で実行役の組員ら13人を逮捕するに至りました。さらに、殺害を指示したとされる山健組系の組長が逮捕・起訴されましたが、一審の神戸地方裁判所の裁判員裁判では「被告が関与した可能性はあるが、指揮があったかどうかには合理的な疑いが残る」として無罪を言い渡されました。

しかし、二審である大阪高等裁判所は「厳格な組織内の上下関係が背景にあり、被告の指揮命令で行われたと推認できる」と判断し、逆転有罪として懲役20年の判決を言い渡しました。その後、最高裁判所が2015年6月に上告を棄却したことで、この判決が確定しております。

多三郎一家後藤一男総長略歴

  • 兄弟分関係
    後藤一男は、以下の人物と兄弟分の関係にありました。

    • 三代目山健組本部長・片岡組組長である片岡昭生とは五分の兄弟分
    • 二代目川内組組長・根本辰男とも兄弟分
  • 五代目多三郎一家総長就任
    1976年、二代目中京浅野会・近藤組組長である近藤昭の引退に伴い、若頭だった後藤一男が跡目を継承しました。この時より、五代目多三郎一家総長を名乗るようになりました。
  • 中京戦争と服役
    1980年代、瀬戸一家・侠神会との「中京戦争」と呼ばれる抗争事件が勃発しました。この際、相手側に死者1名が出たことで、後藤一男は長期間の服役を余儀なくされました。
  • 出所後の組織状況と動向(1998年)
    後藤一男が1998年に出所した頃、中京地域の組織構図は以下のように変化していました。

    • 中京五社会(導友会・運命共同会・平野屋一家・稲葉地一家・瀬戸一家)は瓦解
    • 所属していた「運命共同会・中京浅野会」は弘道会に加入
    • 鉄心会は稲川会に加入
    • 平井一家は五代目山口組に加入

    このような状況下で、後藤一男は兄弟分である三代目山健組本部長・片岡昭生との関係性から山健組に加入し、以降、「五代目多三郎一家」と名乗るようになりました。

  • 四代目山健組舎弟頭への就任と対立(2005年)
    2005年8月、山健組が四代目に代替わりすると、後藤一男は四代目山健組舎弟頭に就任しました。しかし、当時収監中の六代目山口組組長・司忍に代わり指揮を執っていた山口組若頭・髙山清司を公然と批判したことで、山口組執行部から問題視されることになります。
  • 刺殺事件(2007年)
    2007年5月31日、後藤一男は四代目山健組・健國会の組員によって刺殺されました。この「身内同士による口封じ刺殺事件」に関して、主犯格とされた勢昇らは全国指名手配されました。
  • 事件のその後
    • 2010年4月:後藤一男刺殺事件における指示役として、四代目山健組若頭・健國会会長である山本國春が、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)容疑で逮捕されました。
    • 2025年10月26日:神戸山口組・二代目健國会最高顧問である勢昇が、当時四代目山健組・一勢会会長として現場の指示役だった疑いで、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)の容疑により逮捕されました。

名古屋抗争終結後には1991年3月、九代目瀬戸一家総裁・渡辺啓一郎氏と十代目平井一家総裁・岸上剛史氏は、五代目山口組組長・渡辺芳則氏から盃を受け、山口組の直参となりました。

その後、中京地域の他の組織でも動きがあり、中京浅野会、平野屋一家、導友会、稲葉地一家が五代目山口組弘道会の傘下に入りました。一方、鉄心会は「鉄心一家」の名で稲川会の直参となります。しかし、2006年に四代目を巡る内部の分裂騒動をきっかけに稲川会を脱退しました。

その後、2011年に「二代目鉄心興業」として弘道会傘下に入りますが、2013年には解散しております。

後藤一男総長は中京戦争で服役後、所属していた中京浅野会は弘道会に所属していました。自身は弘道会を嫌がって五代目多三郎一家を名乗り山建組に加入しました。そして山建組は弘道会を批判していた後藤総長を暗殺したのですが、その十数年後には山建組が弘道会体制の山口組から抜けることになるのです。皮肉なものです。

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